2016年06月04日

話さなくなったことに、相手は永遠に気付かない

大事な話しをしている、と自認しているとき、私はそうした前置きをする。
それでもなお、中途で反論、他の話し、論旨の違う見当違いな持論のようなもので言葉を遮られると、私はそのことについて永遠にその人に話さない。
雑談であれば別だろうか、と考えてみたが、どうやら雑談でも私にはその傾向がある。
気の置けない人たちとのクロストークのようなものは嫌いではなく、むしろ自分が発言するスキがなくてもおもしろがる傾向があるが、そういう類のこととは違う。
まあ、簡単に乱暴にくくれば、真面目な話しをしているときのことである。

悲しいとか怒るとかという感情がわくでもなく、単に必要がないのだろうから、と話さなくなるだけだ。
いや、あるいは悲嘆をしていたり憤慨しているのかもしれないが、尋常じゃない速度で、悲嘆や憤慨の心理的過程をあまねく通過してしまっているのかもしれない。

私は足りていない、と感じれば、何度でも同じことをなるべく違う言葉や例でもって話す。
とはいえ、真摯、とまでいかないまでも、とりあえずお話しを聞いているようなら何度でも話すが、飽きていたり拒絶していたりすれば二度とそのことについて話さない。

こうした二度と話さなくなったことについて、話してください、といったお願いをされることはない。
私が話さなくなったことに、相手は永遠に気付かないからだ。

明らかにそれをしてはダメだろう、とわかっていることをしようとしている、あるいはしているとき、それを止めようとか、改心させようとかを私はしない。もちろん、犯罪であれば別だが。
お仕事でアドバイスやサポートを頼まれていれば、その費用、期間に応じて強制的にでも止める。
こういうときの私は苛烈だ。おそらく恐ろしい。鬼の様である。
そういったほとんど見せない姿を知っている人はこのブログの読者には数人いるとは思う。

永続しない優しさは悪である。
ゆえに、単発のすれ違い案件で、人は他者への優しさを示しやすく、比較的長期と思われる状況の中にいると見て見ぬフリをしてしまいがちなのかもしれない。

その時々の気まぐれな感情や相手への好悪の印象でそれをしたりしなかったり、はじめはしていたのに自分のことで忙しくなってできなくなったり、というのは少なくとも私の中では善ではない。
なので、私は善人ではない。
私はお仕事以外での対応は気まぐれだからだ。シェフの気まぐれサラダ以上に盛り付けが違うほど気まぐれだ。

私は必要とされていなければ、重要なことや気づいているポイントについて話すことはない。
話したところで変わらないからだ。
迷惑がられるのを知っているからだ。
関係性のみ悪化することを知っているからだ。

それでも大事なお話しをするほど、私は善人ではない。

こういう対応をしているのは、きっと私だけの話しではないと思う。









posted by マスター at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 柊PROJECT | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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