2016年06月06日

みっともない自分を知る機会は人生に幾度もある

ちゃんとあきらめる。
間にあわなかったと思い知る。
勝てなかったと自覚する。
やらなくなっているのだとわかる。
もういないのだと受け入れる。

そのためには、悲しみ、嘆き、絶望して身悶え、孤独や寂しさや喪失感に向きあう必要があります。
お気に入りのペンがなくなった時でも、大切な存在が死んだ時でも。

みっともない自分を知る機会は人生に幾度もあります。
あるはずでした。

最近は、みんな賢く、そうした悲嘆や絶望の過程を避ける傾向があります。
老若男女問わず、です。

だから、時間やお金をかけたり情熱を注いだりした物事と決別できません。
自分と向きあうことをやり残したまま、新しい何かをやろうとしても自身の水準は同じままなので、同じようなことでつまづくというわけです。

何かしら目的を持って動き、考えてきたのだから、成長がないわけではないですが、もう無理なこと、手遅れなこと、あきらめる以外にどうしようもないことなど、つまり「終わり」の時に、すっかり悲嘆し、絶望しておかないと、重い鎖のような負債を経験に巻き込んで、わかっているのに同じ失敗をし、わかっているのにパッとお金が払えなかったり、それじゃいけないとわかっていてなお、いざという時に行動できなくなります。

いつも肝心なところでうまくいかない理由には、こんな事情も含まれているかもしれません。

例えば、知り合った人との関係性を残そうとし、はじめたことを切り捨てず、終わったことにしがみつき、かつての肩書きに依存し、昔の成功で自分を装う、そんなことでうまくいくはずのことがうまくいかなくなるわけです。

もちろん、なんでも簡単に切り捨て、あきらめろという話しではありません。
むしろ逆です。

怒鳴られ、なじられ、大事な人に引きとめられても行い、しっかりと失敗し、きちんと恥をかき、終わりでない限り何度でも再起し、何度も失敗し、時に死に物狂いで、時に淡々と地道に、時に惰性で挑むこと、その行いがつづくこと。
これらがなければ小さな成果すら出ない場合が多いでしょう。
書くととんでもない苦行のように感じるかもしれませんが、やれる人はこれらを苦労や努力と思っていません。

これができなくなった時が終わりの始まりと言えるでしょう。

終わっているものを抱えながら新しいことができたり、お金儲けできたり、幸せになったりすることができるほど、世の中は優しくないとも言えます。
忘れろ、そのときの想いまで手放せ、という話しではありませんよ。
向きあい、きちんと悲しみ、嘆き、絶望しろ、という話しです。


私はかなり前に、希望の仕事があるのに他の仕事ばかりさせられている人に相談をされていました。
才能があり、それは抜きん出ていると私は確信していました。
様々な策を弄して希望をかなえてあげたかったけれど、その目論見はうまくいっていませんでした。
あるとき、その人が希望の仕事をしていると耳にしました。

私は喜んだでしょうか?
いいえ。
私は混乱し、取り乱しました。
そのときの私の取り乱しようは異常だったと自分でも記憶しています。

時間を巻き戻せる不思議な力を妄想してまで、それをかなえてやるのが自分でありたかったんです。

しかし、その人がそれをできている事実こそが私の望みであることを知ったんです。
私の仕事は私の意志とは反していましたが「終わり」だったんです。

自己顕示欲、自分が得たかった功績、感謝されたいという気持ちなどがそぎ落とされたあとに残ったのは、よりよく仕事のできる自分でした。

そのときの怒りや痛み、孤独感や喪失感は確実に私に残っていますが、穏やかな気持ちでその事実を認めることはできています。

絶望のプロセスは順不同なところもありますし、行ったり来たりもして揺れ動きますがだいたいこんな感じで通過していきます。

「ウソだ!そんなことあるもんか!」と焦り、取り乱し、無力感と孤独感を味わいます。
独特で特殊な大きすぎるストレスです。
だから、否定し続けられなくなり、理不尽で妄想的な怒りに身を任せたり、さんざん責任転嫁しまくったりすることもあります。
家族、友人、知人、社会、そして神のような存在にまで噛み付きます。

怒り、憎しみ、恨み、ねたみ、憤りが湧き、また、強い喪失感から自分を不当に責めてしまうこともあるでしょう。

感情的に取引をしようとし始めたりもします。

「それが避けられたら何でもする。」
「これをするから、時間が欲しい」などと。

それは「いいこと」をすることやなにかを我慢をすることで報酬がもらえる、という理屈が悲嘆や絶望でも起こるかもしれない、という幻想です。
神にすがるようなかなうことのない祈願や請願です。

他人には正当な理由が見えない、あるいは事実を基づかない「期限」を自分で設定して
「もし〜が達成できたら、やめない」という人がいますが、それはすでに絶望の中をかなり進んできていて、事実に気付くための儀式的な約束なんです。

心理学的には、約束は秘密の罪悪や高次欲求的な性愛と関連していることが多いです。

つまり、この段階では、現実も過去もきちんと把握し始めているし、根本的な欲求が回復し始め、正気を取り戻し始めている、とも言えます。

そうして「やはりそれは避けられない」「やっぱりダメなんだ」「もういない」と、それまで部分的に否認してきた「終わり」という事実を直視せざるをえなくなります。
かつて感じたことがないほど凄絶な孤独感や不安感を思い知ります。
すべてが終わったという途方もない喪失感から、「人の中にいたくない」「ひとりになりたい」という気持ちになるし、そうしないと心が壊れてしまうかもしれません。

こうしたことを順番どおりではなく、行ったりきたりを繰り返したりしながら、現実というより変えがたい事実がわかります。
すとんと終わりを受け入れられる時が来ます。
それは、ふいに来ます。

それは驚くほど穏やかですが、痛みはあり、怒りも孤独も寂しさもそこにありますが、視野が広がります。
視野が広がるというのは、心の裾野や標高が変わるのと同じです。
つまり、新しい世界が見えるようになります。

悲しみも嘆きも絶望もなるべく経験したくはないものですが、自分の意思や行動で到来を避けられるものでもありません。

この記事を読んだからといって、その過程をすんなり受け入れられるものでもないでしょう。
時として目をそらし、心を閉ざし、向きあえないこともあるでしょう。
私だってそうです。

しかし、いくつも訪れる「終わり」に対して、いくつかと向きあうことになるでしょう。

そのときの、いえ、おそらくはそのあとにこの記事が少しでも役立てばいいな、と思っています。


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posted by マスター at 01:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 柊PROJECT | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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