2016年06月11日

コミュ力がある、と思い込んでいる人が苦手だ

コミュ力がある、と思い込んでいる人が苦手だ。
さらに「はずさないネタ」を持っている、と思い込んでいる人はもっと苦手だ。

どうも、喫茶柊のマスター、えいすけです。
喫茶店のマスターにあるまじき、と7割以上の人が思い、3割弱の人がふーん、そうなんだ、と思い、1%くらいの人がなにかを得られるような、今回はそんな内容。

コミュニケーションは言葉のキャッチボールとよくいわれるが、コミュ力があると思い込んでいる人が投げるボールはだいたい暴投である。
少し手を伸ばしたり、キャッチポイントまでステップをすれば取れるコントロールの悪さではなく、正面にいる2メートル先の私に向かって投げてるつもりで、10メートル先の左の古民家のガラスを割るほどの暴投だ。
キャッチできるはずがない。
キャッチできなければ会話はそこで終わりである。
わざわざ私が人が住んでるかもあやしい古民家に入り込んでボールを探しにいって、人のよさそうなお婆さんにお茶を誘われ、おもいのほか美味しい煎茶をいただく幸運よりも、たまたま遊びに来ていたJKの孫に冷たい視線で見られるような目にあうかもしれないリスクのほうがはるかに高いのだから、そんな危険を犯す必要はない。

つまりは暴投するほうが悪い。
だが、コミュ力がある、と思い込んでいる人はボールの行方なんか見ていないのだ。
会話が終わりだということ(そもそも成立していないこと)に気付きを得ない。
それどころか投げたから相手はキャッチしていると思い込んでいる。
だから「ヘイヘイ!投げ返してYO☆」と待ち構えている。しね。

こういう相手に返答をしないでいると、ノリが悪いことにされる。
いやいや、おまえが暴投してんだって。
投げ返すためのボールは私のファーストミットの中にはないんだよ。

しかし、コミュ力がある、と思い込んでいる人は、投げるためのボールを量産している。
これが脅威だ。ジオン脅威のメカニズムだ。いや、ジオンもメカニズムも関係ない。誰もがガンダムネタ判ると思うな。

ともかく、ガンダムとは関係のないボールを量産しているのでまた投げてくる。迷惑この上ない、という顔をダイレクトにしているのに気付かない。
いつまでたっても気付きを得てくれない。

たとえ、私のところにまっすぐ来たところで、そもそもキャッチしたくないようなつまらないボール(ネタ)ばかりだが、やはり、私に向かって放物線を描かない。
なのにあたかも私に投げたような顔をしている。
その顔はだいたい笑顔なのだ。
  怖  い  。
真のオタクの場合、聞いていようがいまいが、今、話したいことを話すものだが、これをきいているほうが、1億倍は楽しい。時折、本当にタメになることもあるので有意義だ。

が、
「ヘイヘイ!投げ返してYO☆」
である。

だからキャッチしてないんだって。

とはいえ、この状況は終わらせたい。
しかし、方法はほとんどなくて、時間切れくらいしかないのが実情だ。
恐ろしいことに、この手の人は、自分のも他人のも時間を大切にする、という概念がない。
よく道端や交差点の角で立ち止まって何時間も話しこんでいる人たちが「川流れのゴミ」と称される状態になっているが、きっと暴投されたボールをいちいち拾いに行っているからそんな時間になるんだろう。違うか。

さて、いよいよ会話が弾まないとなると(おおむね本人のせいだが)、「はずさないネタ」という魔球を投げてくる。
これがだいたいおもしろくない。
いや、「だいたい」いらないや。
おもしろくない。
暴投のほうがまだましだ。
なぜなら白けるものの寒くはならない。
「そこらの芸人よりおもしろいネタをかましてやった」と自認しているからだ。寒い。あとここで何年…
というくらい、この時間が辛い。
クソおもしろくない。逃げたい。
しかし、自分の喫茶店(=喫茶柊:コミュ障に優しくリア充に厳しい)にいる場合、私には逃げる手段がない。助けてくれ。

「はずさないネタ」は、クソおもしろくないのである。
クソがつくほどだからバットなスメルでアンタッチャブルだ。

私の人への判断基準はほとんどがおもしろいかおもしろくないかで占められている。
人と仲良くするとかお金のためとかこの場の雰囲気を悪くしないようにとかという判断はしない。
知ったこっちゃないからだ。

無理に仲良くしなくて困ったことはないし(逆は多々ある)、お金のために自分を曲げてよかったことはひとつもないし(逆は多々ある)、場の雰囲気を悪くしないようにしたために嫌な人が居続けたら本末転倒だ。
と私もこの店(大田区下丸子の喫茶柊)も知っている。

「店が知っている」とはおかしな話しと思うかもしれないが、30年を越して同じ場所にあり続ける店はツクモ神になり意思をはらむので、うちの店は妖怪の類いになって8年目くらいだ。
たまに私やお客さんとお店そのものとに会話のようなものが成立するのもそのせいだ。

そんなお店が妖怪化しているとか些細な話しはともかく、自分のおもしろいを選択して結果孤独になっても、おもしろいものは選択できてる人は幸せだと私は確信している。
大勢のなかで孤独感を味わうよりひとりで充足感を味わったほうが全然いい。
そして、そういうことのほうが、将来メリットを生んでいる経験が私の場合、たくさんあるので、いっそう私をかたくなに、とりあえずその場をつくろう、という行為を「しなくてもいいや」という積極性となって現れてしまう。

簡単に言えば、コミュ障モードに突入するのだ。
喫茶店のマスターにあるまじきモードである。
客観的に見たとしたら、そのモードで私が黄金色に輝いていようと自重しろ、とわたしは私に言う。

まあ、偶然知り合ったのなら二度と会わなくていいし、お客さんなら二度と来なくていい。
その人と仲良くできていたり、その人と会話を弾ませられたりする(お互いのボールがなくなるまで投げ続けて肩を壊す)友人や仲間や絆や団結で結ばれている人たちとも繋がれなくていい。引き寄せたくない。遠ざけたい。だって損しかないんだもん。

さらに後押しするのは母からの格言だ。
「いらないお客さんはいる」
さすがは個人店舗のベテラン、長く店を続ける秘訣を短くまとめすぎている。
しかし普遍的な心理である。宇宙の深淵を見るようである。

なので、私は喫茶柊のなにかにつき従って、そういう人に対してはコミュ障モードになることにしている。

そんなとき、私はよほど充実した会話を言葉もなくお店としている。


まとめ

個人の小さなお店は大手の戦略を真似たときから終わりが始まる。


いや。
別にそんなたいそうなことを書きたかったわけではない。


おわり


posted by マスター at 19:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 柊PROJECT | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月06日

みっともない自分を知る機会は人生に幾度もある

ちゃんとあきらめる。
間にあわなかったと思い知る。
勝てなかったと自覚する。
やらなくなっているのだとわかる。
もういないのだと受け入れる。

そのためには、悲しみ、嘆き、絶望して身悶え、孤独や寂しさや喪失感に向きあう必要があります。
お気に入りのペンがなくなった時でも、大切な存在が死んだ時でも。

みっともない自分を知る機会は人生に幾度もあります。
あるはずでした。

最近は、みんな賢く、そうした悲嘆や絶望の過程を避ける傾向があります。
老若男女問わず、です。

だから、時間やお金をかけたり情熱を注いだりした物事と決別できません。
自分と向きあうことをやり残したまま、新しい何かをやろうとしても自身の水準は同じままなので、同じようなことでつまづくというわけです。

何かしら目的を持って動き、考えてきたのだから、成長がないわけではないですが、もう無理なこと、手遅れなこと、あきらめる以外にどうしようもないことなど、つまり「終わり」の時に、すっかり悲嘆し、絶望しておかないと、重い鎖のような負債を経験に巻き込んで、わかっているのに同じ失敗をし、わかっているのにパッとお金が払えなかったり、それじゃいけないとわかっていてなお、いざという時に行動できなくなります。

いつも肝心なところでうまくいかない理由には、こんな事情も含まれているかもしれません。

例えば、知り合った人との関係性を残そうとし、はじめたことを切り捨てず、終わったことにしがみつき、かつての肩書きに依存し、昔の成功で自分を装う、そんなことでうまくいくはずのことがうまくいかなくなるわけです。

もちろん、なんでも簡単に切り捨て、あきらめろという話しではありません。
むしろ逆です。

怒鳴られ、なじられ、大事な人に引きとめられても行い、しっかりと失敗し、きちんと恥をかき、終わりでない限り何度でも再起し、何度も失敗し、時に死に物狂いで、時に淡々と地道に、時に惰性で挑むこと、その行いがつづくこと。
これらがなければ小さな成果すら出ない場合が多いでしょう。
書くととんでもない苦行のように感じるかもしれませんが、やれる人はこれらを苦労や努力と思っていません。

これができなくなった時が終わりの始まりと言えるでしょう。

終わっているものを抱えながら新しいことができたり、お金儲けできたり、幸せになったりすることができるほど、世の中は優しくないとも言えます。
忘れろ、そのときの想いまで手放せ、という話しではありませんよ。
向きあい、きちんと悲しみ、嘆き、絶望しろ、という話しです。


私はかなり前に、希望の仕事があるのに他の仕事ばかりさせられている人に相談をされていました。
才能があり、それは抜きん出ていると私は確信していました。
様々な策を弄して希望をかなえてあげたかったけれど、その目論見はうまくいっていませんでした。
あるとき、その人が希望の仕事をしていると耳にしました。

私は喜んだでしょうか?
いいえ。
私は混乱し、取り乱しました。
そのときの私の取り乱しようは異常だったと自分でも記憶しています。

時間を巻き戻せる不思議な力を妄想してまで、それをかなえてやるのが自分でありたかったんです。

しかし、その人がそれをできている事実こそが私の望みであることを知ったんです。
私の仕事は私の意志とは反していましたが「終わり」だったんです。

自己顕示欲、自分が得たかった功績、感謝されたいという気持ちなどがそぎ落とされたあとに残ったのは、よりよく仕事のできる自分でした。

そのときの怒りや痛み、孤独感や喪失感は確実に私に残っていますが、穏やかな気持ちでその事実を認めることはできています。

絶望のプロセスは順不同なところもありますし、行ったり来たりもして揺れ動きますがだいたいこんな感じで通過していきます。

「ウソだ!そんなことあるもんか!」と焦り、取り乱し、無力感と孤独感を味わいます。
独特で特殊な大きすぎるストレスです。
だから、否定し続けられなくなり、理不尽で妄想的な怒りに身を任せたり、さんざん責任転嫁しまくったりすることもあります。
家族、友人、知人、社会、そして神のような存在にまで噛み付きます。

怒り、憎しみ、恨み、ねたみ、憤りが湧き、また、強い喪失感から自分を不当に責めてしまうこともあるでしょう。

感情的に取引をしようとし始めたりもします。

「それが避けられたら何でもする。」
「これをするから、時間が欲しい」などと。

それは「いいこと」をすることやなにかを我慢をすることで報酬がもらえる、という理屈が悲嘆や絶望でも起こるかもしれない、という幻想です。
神にすがるようなかなうことのない祈願や請願です。

他人には正当な理由が見えない、あるいは事実を基づかない「期限」を自分で設定して
「もし〜が達成できたら、やめない」という人がいますが、それはすでに絶望の中をかなり進んできていて、事実に気付くための儀式的な約束なんです。

心理学的には、約束は秘密の罪悪や高次欲求的な性愛と関連していることが多いです。

つまり、この段階では、現実も過去もきちんと把握し始めているし、根本的な欲求が回復し始め、正気を取り戻し始めている、とも言えます。

そうして「やはりそれは避けられない」「やっぱりダメなんだ」「もういない」と、それまで部分的に否認してきた「終わり」という事実を直視せざるをえなくなります。
かつて感じたことがないほど凄絶な孤独感や不安感を思い知ります。
すべてが終わったという途方もない喪失感から、「人の中にいたくない」「ひとりになりたい」という気持ちになるし、そうしないと心が壊れてしまうかもしれません。

こうしたことを順番どおりではなく、行ったりきたりを繰り返したりしながら、現実というより変えがたい事実がわかります。
すとんと終わりを受け入れられる時が来ます。
それは、ふいに来ます。

それは驚くほど穏やかですが、痛みはあり、怒りも孤独も寂しさもそこにありますが、視野が広がります。
視野が広がるというのは、心の裾野や標高が変わるのと同じです。
つまり、新しい世界が見えるようになります。

悲しみも嘆きも絶望もなるべく経験したくはないものですが、自分の意思や行動で到来を避けられるものでもありません。

この記事を読んだからといって、その過程をすんなり受け入れられるものでもないでしょう。
時として目をそらし、心を閉ざし、向きあえないこともあるでしょう。
私だってそうです。

しかし、いくつも訪れる「終わり」に対して、いくつかと向きあうことになるでしょう。

そのときの、いえ、おそらくはそのあとにこの記事が少しでも役立てばいいな、と思っています。


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posted by マスター at 01:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 柊PROJECT | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月05日

突き放しの法則

突き放しの法則、という今回のタイトルですが、たいして意味はありません。

なにを書いてもけっこうなアクセス数が稼げてしまうので、おかしいな、と感じて、アクセスをあげる要因のひとつ、地名や屋号を抜いて記事をアップしてみたところ、たいして突き放しの効果はでなかったわけです。

このブログはPCでみるとわかりますが、外見だけでもかなりシンプルになっていて、内側の仕組みも全部取っ払っています。
facebookにシェアしてるくらいで、twitterにはアップは反映されません。
で、そのfacebookもいいね!は2〜3がいいところなので、そちらから流れてきているというのは考えにくい。
不可思議現象ですなっ。

DCIM0023.JPG


posted by マスター at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 柊PROJECT | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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